社会福祉法人 鉄道身障者福祉協会

TOP
最新号目次

協会概要
事業内容・運営・組織

あゆみ

出版物紹介
注文方法

バックナンバー紹介

懸賞作品募集
前回懸賞課題
前回入選作品

お役立ち情報

会員専用ページ

第54回リハビリテーション懸賞作品

■第一位

「明日咲く花」

徳 田 有 美

 ゴトンゴトン、電車は揺れる。朝の満員電車は、田舎と言われるこの岡山の地でも、それなりに厳しい。必死に吊革につかまっていても、身体は人ごみに押され、安定して立っていることも難しい。そんな中、私と友人である山本さんは、優先座席前に遠慮がちに立ち、他愛のないおしゃべりで、息がつまりそうな時間を何とか楽しく盛り上げている。しかし、私の心は、いつか山本さんのために席が一つ空くことを願っている。
 山本さんは、視覚障碍者である。身体障害者手帳一種一級、白杖を持ち分厚いメガネをしているのだから、一目で彼女に支援の手が必要なことはわかろう。山本さんには優先座席に座る権利が十二分にある。しかし、四人席にどっかり腰を降ろした今時の高校生たちは決して席を譲ろうとしない。女子高生は化粧ポーチを広げ、マスカラのつき具合をチェックし、男子生徒は音楽を聴きながら眠りこけ、山本さんの存在に気づいてか気づかずか、時をやり過ごすのだ。
 それでも、稀にすくっと立ち上がり席を譲ってくれる男子高校生がいる。そうした学生さんには御礼を言っても、ぺこりと頭を下げるだけで、すぐに雑踏の中に姿を消してしまう。ちょっぴり照れくさいのだろう。
 そして、私は山本さんに言う。「今、男の子が席を空けてくれたよ。座って。」その時、山本さんは必ず私に一声かける。「とくちゃんこそ座りなさいよ。あなたって危なっかしいんだから。」
 私は、一見五体満足な、誰がどこから見ても健常者である。しかし困ったことに、実際はパニック障害という精神疾患を持ち、満員電車を苦手とする私は、よく電車内で発作を起こし、うずくまってしまうことがある。
 やがて、電車は岡山駅につく。私と山本さんはたとえ座れなくても無事倒れることなく駅に辿り着けたことをお互いに喜び、また翌日ね、と別れを告げる。
 そうなのだ。時代は超高齢社会を迎え、私達の目は高齢者の方にいきがちだが、私達のように障害を持ちつつ、毎日を生きている人々が多くいる。特に、最近では私と同じ疾病、パニック障害を持つ人は特に多い。そう、おそらく皆、口に出さないだけで、知的障碍者、発達障碍者、難病患者と本来は支援を必要としつつも、社会から目を向けられない人は多く存在しているはずだ。
 パニックを運悪く起こした朝は、私は思う。「私は精神障碍者です。席を譲ってください」という大きめの画用紙でも首からぶらさげておけば、高校生達はしぶしぶながら立ち上がってくれるのだろうか。いや、今の学校教育を考えると、そうした優しさを持つ生徒は非常に少ないと感じる。それでは、今の学校教育の現場、福祉教育の現場はどうなっているのか、その視点で述べてみたい。
 まず、大学の教育学部四年生の書く、教員採用試験の模擬試験の小論文を私は仕事柄添削している。彼らは、自分が先生になったときに、どのようなボランティアを生徒にさせたいか等と言った命題に対し、ほぼ七割の学生が、「ゴミ拾いを皆で行う」と回答してくる。残った学生のうち、ほんの一握りの学生が、高齢者施設等への訪問等と回答してくる。そして、なぜか障害者施設のことは、彼らの念頭にはない。そこに、学生達の理解力の乏しさを感じる。それでも、訪問はまだ良い方だ。ゴミ拾いは確かに立派な奉仕活動ではあるが、確かに町は綺麗になるだろうが、学生にとって、今の社会、これからの社会を見つめる指導はまず出来ない。小学生相手ならまだしも、高校生相手の授業案でこの有り様である。私は情けなく思う。これが現在国公立、私立問わず大学の教育学部で教えられている心の教育なのだ。
 次に、福祉系大学を選んだ学生を例にあげてみる。学生は社会福祉士、介護福祉士等、資格取得のために、一年次、現場実習に一日出かけていく。その際、約半数の施設では、初めから、ちょっとだけ「やらせ」を仕掛けてくる。つまり、話の良くできる、にこやかな高齢者の方を数人あえて選んでおいて、彼らとだけ、学生とのやりとりをさせるのだ。実際に大多数を占める、寝たきりの方、尿臭はなはだしいおしめ着用を拒否する方の姿を学生達は一度も見ずして、優しく元気高齢者の方に力づけられ、「とても有意義な一日でした」と言って帰ってくる。
 今年もまたやってくれたな。私は、落胆する。担任であったため、いつも受け入れてくださる施設の方には感謝の念が絶えなかった。しかし、到底言えないが、心の中では、貴方方の現実を見させてやってくださいと嘆いていた。
 そんな福祉系大学を卒業した学生達が社会人となり、入所施設、通所施設等に就職していく。私は、今年度の学生の実習風景を見るために巡回指導といって、各施設を回らなければならない。そして、学校を卒業した懐かしい教え子に運よく出会えた時、高齢者の方がにこやかに童謡を歌ったり、ただテレビの前に車いすで座らされて、もう何度見たかわからない時代劇を見せられている姿を見かけたら、大抵教え子に尋ねてみる。「貴方は、自分が歳をとったときに、この施設に入りたいか。」と。彼らは声を揃えて言う。「いや、自分は入りたくないですわ。」
 そんな無責任なことがあってたまるか。自分がされて嫌なことは、他人に強要するなとあれ程私が教えただろう。「でも先生、僕らの立場じゃどうしようもできないんですよ。」「じゃあ、夢や希望はないのか」「ないっすねぇ。毎日一杯一杯で。」そういう彼らと別れ、私の心の中でやるせない思いが再燃する。
 これらが、今の十代、二十代の学校生活、社会人生活である。私は思う。教育の段階から何かが誤っていると。そして、その誤った教育を教えようとする教育学部の学生達もまた、誤った教育を受け、現実を何も知らずして先生になっていく。
 例えば、褥瘡が臀部に大きく出来、その処置に失敗し、蛆虫がわいてしまったのを、私は相談員をしていた頃に経験した。本人にひた隠しにしながら、毎日看護師が蛆虫をとっている施設が実存することを、一体どれだけの人が想像するだろうか。身体拘束の禁止と言われながらも、大半の病院・施設では、危険行為があるためと理由をつけ、未だにつなぎ寝巻にミトンの手袋をはめ、車いすではY字ベルト着用で、高齢者の自由を奪っていることをどれだけの人が知っているだろうか。
 福祉系大学、教育学部にいる学生に限らず、将来を担う私達は、真剣に今後を考えなければならない。通所、入所施設を問わず、将来自分が入りたいと思わせる空間を模索することを。今二十代の若者であっても、いずれは八十を超え、介護の世話になるときが来るのだ。将来の自分が安心して暮らしていける社会を、今の段階から考えるべきである。
 特に、これからは団塊の世代が高齢者層に加わったことにより、高齢者の質が変わってくると思われる。今までの明治、大正を生きぬいた方々のような強さ、懐の深さをお持ちの方は減り、自己主張の強い昭和世代に移り変わってくる。おそらく、昭和世代の要求は、一人ひとりが好きに生きたい、既存の施設の枠にははまりたくないと、今の施設の在り方では満足しないであろう。すなわち、今から、今後後期高齢者となる彼らのニーズを把握することも大切なのだ。
 多種多様な人々の住む地域において、皆が幸せに生きるために、私はやはり、小さい頃からの教育を重視したいと思う。そのためには、彼らを指導する教員の資質向上を図らねばならない。それは、教育学部の学生がいつも小論文で書く、「書物で勉強したり、研修会に参加したり」するのではなく、彼らとふれあうだけでいいのだ。
 そして、現場は、現実を公開していってほしい。公開すればするほどに質はあがってゆくはずだ。そして各種学校では、綺麗ごとで福祉を語ってほしくない。認知症で、ただ大声を出し、泣くしかできない高齢者の方とともに、涙の一滴でも流す優しさを教育してほしい。
 私と山本さんは、実は満員電車で偶然出会い、私が席を譲ったことから交流が始まった。そんな彼女は私の体調をいつも気遣ってくれる。私にとっては苦しい電車通勤ではあるが、よい友人に出会えた。
 そして、私達は時折、岡山市内で一緒に遊ぶ。おいしいものを食べ、彼女に似合う服を私が選ぶ。二人で語る。障碍なんて関係ない、アラフォー女子として楽しみ尽くさねば。
 人と接することはとても楽しいことだ。そこに障碍の有無など関係ない。これを、今後の子どもたちへ伝えていきたい。そして、思春期だからと言い訳などせず、自然に優先席を譲れるような学生達が増えることを願ってやまない。
 山本さんはきっと、あの笑顔で「ありがとう。でも、あの人に譲ってね。」と、私を指すだろう。学生はおそらくきょとんとするに違いない。私は、逃げも隠れもせず、彼らに伝えるはずだ。「この世の中には、いろんな障害を持つ人がいてね、私がその一人なんだ」と。
 そうした私や山本さんとのふれあいから芽生えた福祉という名の小さな種が、電車伝いにあちこちに飛んでいき、人々の心に根付くことを期待する。いつか、人々の心は大きな花束で一杯になることだろう。
 今更だけど、バリアというもの。何を今更、当たり前に存在している。しかし、心のある人さえいれば、誰かがきっと支えてくれるはずなのだ。そんな世の中がいつ来るかしら。私と山本さんの電車通勤は続く。花はきっと明日には咲くはずなのだ。



懸賞作品募集に戻る